2016年4月24日日曜日

幸せになる勇気をもらえる本

本日は、前回とりあげた「嫌われる勇気」の続編です。
前作には及ばないものの、こちらもインパクトがありました。

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII
岸見 一郎 古賀 史健
ダイヤモンド社
売り上げランキング: 19


前作でアドラー心理学に感化を受けた青年が、再び哲人のもとを訪れるところから本作は始まります。理想に燃えて教師となったものの、所詮アドラー心理学などただの理想論に過ぎなかった、と。そんな絶望感や不満を哲人にぶつけます。そこから始まる今回の哲人と青年の問答では「教育」「親子関係」、そして何よりも「愛」について語られます。

まず哲人は言います。
・アドラー心理学ほど、誤解が容易で理解が難しい思想はない。
・幸福とは、その場に留まっていて享受できるものではない。踏み出した道を歩み続けなければならない。
そして「人生における最大の選択とは愛である」と語ります。

さらに、アドラー心理学をある種「哲学」であると考える理由についても述べます。
・神の名の下に「すべて」を語り、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを「宗教」と呼ぶ。一方の「哲学」とは、永遠に歩き続けることである。哲学は学問というより生きる態度であり、それは永遠に「知らない」という態度である。
これは、踏み出した道を歩き続ける、という先の言葉に繋がります。

そして話は、本書の本題である「教育の目標」に移っていきます。
・教育の目標とは、「自立に向けた援助」である。そしてその際に必要なのは、子どもたちに対して持つ「尊敬の念」である。
・尊敬とは、かけがえのないその人をありのままに認めることであり、褒めることとは全く違う。「尊敬の念」を持つためには、自己の執着から逃れて他者に関心を寄せること、何であれ子どもたちの関心事に関心を寄せてみることが必要。まさに、これこそが「共感」。

青年の反論に対し、哲人は「叱責」「賞罰」といった手段はなんら有効ではないと説きます。
・教育者がやるべきことは、子どもたちとともに「これからどうするか」を考えること。「叱責」や「暴力」は、安直さを求める未熟で愚かな行為でしかない。
・教育者がすべきことは、自分の人生はすべて自分で決定するものだと子どもたちに教えること。子どもたちの決断を尊重して、その決断を援助し、見守ること。
・賞罰は、子どもたちを競争原理で支配し、子どもたちの「自立」を妨げる。他者からの承認を求める態度は、ただの「依存」。承認欲求に支配されている限り、何歳になってもその人は「自立」できない。

さらに、他者に対する無条件の「信頼」の必要性を説きます。
・人は、自分のことを信じてくれる人の言葉しか、信じようとしない。だからこそ、あなたがまず先に他者(子どもたち)を信じるべき。目の前の人に信頼を寄せ、目の前の人と仲間になる。そのための勇気を持つべき。

そして二人の話は遂に、アドラー心理学の核心である「愛」に辿り着きます。
・相手をひたすら信じて与える利他的な態度(「交友」の関係)を超えるものこそが、「愛」の関係。「愛」とは、「わたし」や「あなた」という考えを超え、不可分なる「わたしたち」の幸せを築き上げること。
・「愛」とは「わたし」からの解放であり、一方で「自立」とは自己中心性からの脱却。つまり、われわれは「愛」によって「わたし」から解放され、自立を果たすことができる。愛とは、自立を意味する。

つまり親子関係で言えば、親の役目は、子どもたちが「自立(=大人になること)」を果たすために援助すること。そしてそのためには、まず親自身が「愛」を知る(=自立する)ことが必要、ということです。
・相手が自分のことをどう思っているかなど関係なしに、ただ愛する。あなたに出来ることは、ただ自分から先に愛すること。相手がそれに応えるかは、他者の課題。
・「この人はわたしを愛してくれるかしら?」という考えは、自分のことしか考えていない子どものライフスタイル。何歳であっても、こうした人は自立できていない。

そして話は、「愛の」形である「結婚」に進展します。
・アドラーは「運命の人」を一切認めない。誰かを愛するということは、決意であり、決断。運命とは、自らの手でつくり上げるもの。そばにいる人の手を取り、いまの自分にできる精一杯のダンスを踊ってみる。運命はそこから始まる。そして、あなたたちが長いダンスを踊りきった軌跡のことを、人は運命と呼ぶ。
・愛は献身的な働きかけであり、愛するものが背負うべき責任は大きい。愛とは信念の行為であり、愛することには勇気が求められる。われわれは他者を愛することによってのみ自己中心性から解放される。他者を愛することによってのみ自立を成しえる。

そして最後に語られることは、まさに本書で最初に語られた言葉です。「ほんとうに試されるのは、歩み続けることの勇気である」と。人は別れるために出会います。だからこそ「最良の別れ」を受け入れるために、「いま、ここを真剣に生きる」必要があるのです。

前書でも本書でも一貫して、「過去でも未来でもない、いまを真剣に生き続けること」の勇気が語られています。自分はその勇気を持てているか。真剣に考えてみる機会を持てたことに感謝です。

いやー、本ってほんまええもんです!!


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2016年4月17日日曜日

生きていく勇気をもらえる本

続編を読んだ関係で、まずは1作目について紹介します。
ベストセラーになったので読んだ方も多いと思いますが、この本、大変お薦めです!!

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
岸見 一郎 古賀 史健
ダイヤモンド社
売り上げランキング: 16

まず本書のタイトルの「嫌われる勇気」ですが、「自由とは、他者から嫌われることである」というアドラー心理学の考え方からきています。これだけ聞くと思い切り誤解してしまうので順を追って説明しますが、本書はこのアドラー心理学について、哲人と青年の問答という形式をとり、大変分かりやすく解説をしてくれています。このアドラー心理学ですが「心理学」というよりも「哲学」、あるいは「生き方論」と言ったほうが分かりやすいようなものです。しかし、一見楽なように見えて、実は大変厳しい生き方を求めるものです。

まず二人が問答を交わす第一夜目で説かれるのが、
・(人は)自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定する。
・(人にとって)大切なのは、なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。
・あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからだ。
・いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり安心。「もしも何々だったら」と可能性のなかに生きているうちは、変わることなどできない。
・これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない。
といった言葉の数々です。

才能や過去がその人の人生を決定する、という世の一般的な考え方をアドラーは真っ向から否定しています。変わらないことが実はもっともその人にとって楽な道であるから、変わらないという目的のために、才能や過去を自ら言い訳にしているに過ぎない。要は、幸せなるという選択をする勇気がないだけだ、と論じています。

さらに第二夜では、人が抱える悩みの根源について論じていきます。
・人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである。
・われわれを苦しめる劣等感は「客観的な真実」ではなく「主観的な解釈」。
・健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるものではなく、「理想の自分」との比較から生まれるもの。(人は)誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいい。
・対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができない。

非常に厳しい指摘が続きます。そしてここで始めて、アドラー心理学が掲げる目標が明らかにされます。
【行動面の目標】
・自立すること。
・社会と調和して暮らせること。
【心理面の目標】
・わたしには能力がある、という意識。
・人々はわたしの仲間である、という意識。
【目標を達成するための手段】
・「仕事」「交友」「愛」という3つの「人生のタスク」と向き合うこと。
つまり、この「人生のタスク」とは対人関係のことです。さらに、アドラー心理学は「自分が変わるための心理学」であることが示されます。そのためには逃げてはならず、これは勇気の問題だ、と説かれます。

さらに第三夜には、「課題の分離」という考え方が登場します。
・他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになる。他者の期待を満たすように生きることは楽。自分の人生を他人任せにしているから。
・自分の課題と他者の課題とを分離していく必要がある。他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想。
・誰の課題かを見分ける方法はシンプル。その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?
・本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、あとで強烈な反動がやってくるだけ。自分を変えることができるのは、自分しかいない。
・相手を信じること。これはあなたの課題。あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題。
・あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」。その選択についてどのような評価を下すのか。これは他者の課題であってあなたにはどうにもできない話。
・他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。

ここで「嫌われる勇気」の話が出てきます。要は、他者の人生を生きることは人生の嘘であり、自分の課題と向き合い自分の信じる道を選べ、ということです。さらに、親子関係の話も出てきます。例えば、子どもが勉強しないと親はついつい叱ってしまいます。しかし、アドラーは、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えろ、と言います。親に出来ることは子どもを信じることだけだ、と。さらに、困難に直面することを教えられなかった子どもたちは、あらゆる困難を避けようとする、と諭します。実に厳しい考え方です.....。

さらに、第四夜に続きます。
・他者からどう見られているかばかりを気にかける生き方こそ、自己中心的なライフスタイル。「わたしはこの人はなにを与えられるか?」を考えなければならない。
・学校に居場所がないのなら、学校の「外」に居場所を見つければいい。目の前の小さな共同体に固執しない。
・ほめてはいけないし、叱ってもいけない。人が他者をほめるとき、そこには「縦の関係」が存在する。アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱している。横の関係に基づく援助を「勇気づけ」と呼ぶ。「ありがとう」と感謝の言葉を伝え、「うれしい」と素直な喜びを伝え、「助かったよ」とお礼の言葉を伝える。いちばん大切なことは他者を評価しないこと。
・人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知る。自分には価値があると思える。
・他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていく。そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていく。
・他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。あなたが始めるべきだ。

「横の関係」で他者に貢献していくことを説いています。そして、ここでも「課題の分離」が出てきます。要は「他者がやっていなくても関係ない。それは他者の課題。自己の課題として、あなたは他者に貢献していきなさい」と説いています。さらに「あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのはあなたではない。幸福とは(主観的な)貢献感である」とも説いています。他者からの感謝の言葉を求めてはいけない。しかし、自らは感謝の言葉を他者に伝えよ。他者に関係なく、まずはそのことをあなたが始めよ。繰り返しになりますが、厳しい考え方です。

そして、最終夜を迎えます。
・「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極める。「与えられたものをどう使うか」は、自分の力によって変えていくことができる。すべては勇気の問題。
・対人関係の基礎は「信頼」。他者を信じるにあたって、一切の条件をつけない。裏切るか裏切らないかを決めるのは、他者の課題。信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことはできない。

話は最後の核心に近づいていきます。個人的には、この最後の話に、最も感銘を受けました。
・計画的な人生など不可能。人生に目的地は存在しない。(目的地があると考えてしまうと、)できるだけ効率的かつ速やかに達成することが望ましいと考えてしまう。しかし、目的が登頂ではなく登山そのものであれば、結果として山頂にたどり着くかどうかは関係ない(登山という過程そのものを最大限に楽しめる)。
・「いま、ここ」に強烈なスポットライトを(自ら)当てていたら、過去も未来も見えなくなる。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。
・人生はつねに完結している。人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を真剣に生きないこと。
・困難に見舞われたときにこそ前を見て「これからなにができるのか?」を考えるべき。人生の意味は、あなたが自分自身に与えるもの。「いま、ここ」を真剣に踊りきったときにこそ、人生の意味は明らかになる。

最後まで首尾一貫して、大変厳しい生き方が求められています。「変えられない過去のせいにしたり、存在しない未来のことで憂いたり、他者からの承認を求めたり、他者の考えを気にしたり....。それらは全て人生における時間の無駄であり、その人における人生の嘘。先延ばしなどせず、いまこの瞬間を精一杯に生きなさい。他者への貢献を道標に、自分が信じる道を進みなさい。そして、そのための勇気を持ちなさい」と説いています。

人生とはやはり厳しいものです。しかし、人生は「わたし」次第です。そう考えると、人生とは何と楽しくもあるのでしょう。「勇気」を求められる一方で、「生きていく勇気」を逆にもらえた一冊でした。

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2016年4月9日土曜日

やっぱり大阪ってええなーと思える本

本日も万城目ワールドです。
最新刊の「バベル九朔」も早速入手しましたが、それはまた改めて、ということで。
本日は「とっぴんぱらりの風太郎」を読んで以来、再読したいと思っていたこの本。

プリンセス・トヨトミ (文春文庫)
万城目 学
文藝春秋 (2011-04-08)
売り上げランキング: 160,046

万城目さんお得意の「不思議な力」は出てきませんが、やはり本作も不思議ワールドです。

映画化もされたので、ご存知の方も多いと思います。私も映画を見て以来、松平は堤真一さん、真田は中井貴一さんのイメージしか浮かばなくなってしまいました。

物語は、会計検査院の検査官3名が、実地検査で大阪を訪問するところから始まります。
・国家公務員1種試験をトップ合格し、卓越した調査能力を持つ「鬼の松平」
(彼の名前松平元が、徳川家康の原名である松平元康に由来している点がユニークです)
・小太りのおとぼけキャラだが、たまに予期せぬファインプレーをする「ミラクル鳥居」
(映画では性別が女性に変わり、綾瀬はるかさんがいい味を出してくれています)
・ハーバード大学卒で超優秀な美人ハーフ「旭ゲーンズブール」
(映画では性別が男性に変わり、岡田将生さんが演じています)

その一方で、幼い頃から女性になることに憧れてセーラー服で登校し、ひどいいじめにあう中学生の真田大輔(明らかに、真田幸村の長男「大助」に由来しています)。いつも大輔を守る幼なじみのおてんば娘、橋場茶子(明らかに「羽柴」と淀君の本名「茶々」に由来しています)。この2人のストーリーも同時進行します。

この2つのストーリーが交わるのは、松平が謎の「社団法人OJO」の実地検査を実施するところから。ちなみに、この「OJO」という名前は、何かの略ではありません。この名前は、大阪の男たちが長年守ってきたものそのもの、つまり「王女」のことです(ちなみに「王子」だったら「OJI」にしていただろう、と真田は語っています)。ここで松平は、大阪城が建つ場所の地下にある国会議事堂とそっくりな施設に招かれます。一方で大輔も、父の真田幸一(明らかに、今の大河ドラマの主人公に名前が由来しています)に連れられ、その施設を訪れます。

そこで2人が聞かされる話こそ、「大阪国」の存在です。資金不足に苦しむ明治維新時の太政官政府と条約を交わし、資金提供の見返りに、大阪の男たちは大阪国の存在を認めさせました。ただしこの存在は、外部に対しては完全に秘密。大阪の男だけが、父親からの言葉によってその存在を代々知らされ、それを秘密として守ってきています(もちろん日本政府のトップも、アンタッチャブルな話として知っています)。そして、この大阪国の総理大臣こそが、大輔の父親であり、お好み焼き屋の店主である真田幸一だと分かります(大統領自体は持ち回り制だそうですが、真田の男には別の大きな使命があります)。

この大阪国の目的はただ一つ。大阪夏の陣で大阪の住人にかくまわれた、豊臣秀頼の遺児を守り続けること。一方で、彼らが危険を犯して豊臣家の末裔を守り続けた理由がいかにも大阪っぽいです。それは豊臣家への恩義とかではなく、ただ徳川のひどいやり方に不満を抱いたから、です。要は、「ひどい話や。かわいそうや」ということです。そして大阪の男たちは、遺児(今は王女)が何か危険にさらされたとき、決められた合図に従って、立ち上がることになっています。

その話を聞いたうえで、松平は、彼の信念に基づき、大阪国に流れる大量の補助金を検査官の権限に基づき、摘発しようとします(公に摘発することは、大阪国の死も意味します)。一方、ある不幸な偶然が重なって王女が行方不明になったことから、合図に基づき、大阪の男たちも立ち上がります。その数250万人。その先頭に立つのが、大阪国総理大臣である真田幸一です。2人(と大阪の男たち)は大阪府庁の前で対峙し、その瞬間大阪府の都市としての機能は全停止します。

ここで2人が交わす話。父と子のストーリーについて、個人的にはちょっと感動を覚えました。皆さんも一度、読んでみてください。万城目さんの作品は好き嫌いが分かれる気がします。でも、私は万城目ワールドが大好きです。

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2016年4月2日土曜日

ボートの三人男

本日は、1889年出版のユーモア小説。
1889年と言えば、日本では、大日本国帝国憲法が発布された年です。
そんな時代にイギリスで出版され、今まで読み継がれている古典です。

ボートの三人男 (中公文庫)
ジェローム・K. ジェローム
中央公論新社
売り上げランキング: 9,065

この本の登場人物は、3人の男と1匹の犬。
彼らがこの本ですることは、テムズ河での河遊び。
キングストンからオックスフォードまで、テムズ河をひたすら上ります。
その過程で、流域の街々の歴史が語られ、そして自然が感傷的に描写されます。

しかし、この本の分類はユーモア小説。
皮肉とユーモアを交えながら、彼ら(や世間)のダメさ加減が語られます。
しかもそれが、まるで落語を聞いているかのように、実に軽妙に綴られていきます。

例えば、冒頭で綴られる病気の話。

主人公は、目にした広告に書かれていた肝臓病の兆候が全部あてはまることから、自分は肝臓が悪いと確信します。さらに、その他の薬の広告を読んでみても、それぞの病気の兆候が全て自分にあてはまることに気付きます。遂には、大英博物館で病気一般について書かれた書物も読んでみたところ、膝蓋粘液腫以外の全ての病気の兆候が自分にはあてはまることに愕然とします。一方で、この病気にだけかかっていないことに逆に不満を抱き、こんなに多くの病気を持つ自分は医学的見地から見てなんと貴重な宝だろう、と思い至ります。そこで友人である、かかりつけの医師のところに相談に行ったところ、医師は処方箋を書いて主人公に渡します。主人公が薬剤師のところに行きそれを見せたところ、何故か「うちは薬屋ですよ」と言われ、不審に思った主人公が処方箋を読んでみたところ、そこに書いてあったのは、
・ビフテキ 1ポンド
・ビール 1パイント
・散歩 10マイル
・就寝 11時
・小難しいことをいっさい頭に詰め込まないこと

冒頭からいきなりこれです。しかもこれらが、実に軽快な文章で書かれており、思わずニヤニヤしてしまいます。小説の終盤に出てくる釣りについての描写もお気に入りです。

主人公は、自分はテムズ河の釣師になる才能は持ち合わせていない、と言います。何故なら、熟練した釣師となるには、楽々と顔も赤らめずに嘘をつく才能だけでは不足しており、さらに、釣ったときの感興をこと細かに描写するとか、実直な誠実さをみなぎらせるといったことも出来る必要があるからです。さらに、主人公の友人の(主人公いわく)「ひどく良心的」な男の話も出てきます。彼は、釣り上げた魚の数を25%以上多くは言わない、という決心をしていました。しかし、1尾や2尾しか釣れない場合にこのルールは意味を持ちません。それで彼は別のルールを採用します。
・捕えた魚1尾を10尾として勘定する
・さらに、最初から10尾だけ数え足しておく
つまりこれだと、1尾しかつれなくても、20尾釣ったという計算になる訳です。これは簡単だし実行も容易なルールなので、今や、実際に魚釣り仲間の間でも広く採用されていると主人公は言います。おまけに、主人公たちが以前に訪れた酒場で目にした、ケースに入った見事な鱒の話にまで至ります。酒場で出会う人々が口々に、主人公たちがこの土地が始めてだと知ると、その鱒を釣り上げたのは自分で、そのときどんなに苦労したかを語り始めます。しかし、最後に主人公たちが誤ってケースを割ってしまい、その鱒が「石膏細工」であることが判明します.....。

もう、とにかくこんな小咄だらけ。ニヤニヤしているうちに、アッと言う間に読み終わってしまいます。ユーモア小説に分類される本が100年以上も読み継がれてきた理由が、良く分かりました。

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