2016年10月29日土曜日

ボーッとしながらスカッとできるボーン・シリーズ(ネタバレです)

本日は大っ変ベタな作品です。でも面白いです。

最近通勤中に、映画『ジェイソン・ボーン』(新作)の広告を目にします。
それを無意識に見ているうちに、無性に過去の作品が観たくなってしまいました。

そうです。マット・デイモンが主演した3部作です。
『ボーン・アイデンティティー(2002年)』
『ボーン・スプレマシー(2004年)』
『ボーン・アルティメイタム(2007年)』

『ボーン・レガシー(2012年)』という作品もありますが、こちらにはジェイソン・ボーンが登場しません。やはりジェイソン・ボーンが登場してこそのボーン・シリーズです。

ボーン・アルティメイタム (字幕版)
(2015-11-06)
売り上げランキング: 72,887

改めて観直してみました。まず、この3部作のストーリーは、至ってシンプルです。
『CIAによって最強の暗殺者として育てられたものの、ある事件で記憶を失ったジェイソン・ボーンが、自分を抹殺しようとするCIAに復讐をしながら、自らの記憶を取り戻していく』
以上です。約6時間の話が、わずか2行で終ってしまいました.... (- -;)

しかもこのシリーズ、極めて台詞が少ないです。格闘、カーチェイス、追跡等の場面で6〜7割ほど。頭を使う必要がございません。ボッーとしながらスカッとしたい、そんな時に最適です。


意識を無くして海に漂うボーンの姿から、物語は始まります。漁船に助けられたものの、彼は全ての記憶を失っていました。圧倒的な戦闘力以外は。そして彼はその戦闘力を武器に、自分が何者であるのかを探りながら、自分を暗殺しようとするCIAと対決します。そして、自分のような暗殺者育成を行っていたトレッド・ストーン計画を終了に追い込みます。『ボーン・アイデンティティ』は、恋人となったマリーの元に彼が姿を現すところで終わります。

この1作目では特に、ボーンがマリーに言う台詞が印象的です。
ー 忘れるわけないだろ?君しか知らないのに。


しかし、インドでのマリーとの平穏な暮らしは、またCIAによって壊されます。マリーを殺されたボーンは、ヨーロッパへ戻り、彼を陥れようとするCIA高官アボットと対決します。そしてその過程で、ロシアの政治家ネスキーを暗殺した過去を思い出します。アボットを自殺に追い込むとともに、ロシアでの激しいカーチェイスの末にマリーの仇を討ち、ネスキーの娘にも謝罪します。『ボーン・スプレマシー』では、暗殺兵器だったボーンが、マリーの影響によって殺すことを嫌悪し始めます。

この2作目は、ボーンへの理解を示し始めるCIA調査局長パメラ・ランディとの電話で終ります。全く気付いていないランディに対し、ボーンだけは彼女の姿を遠くから確認しながら電話しています。彼の本当の名前を伝えるランディに対し、ボーンが言います。
 Get some rest. You look tired.
慌てるランディ。いやー、格好いいです。










自分のアイデンティティーを突き止めることを決意したボーンは、トレッド・ストーン計画の後続であるCIAの極秘作戦ブラックブライアーの情報を入手した記者に接触します。しかし、記者を殺され、彼に情報を流したCIA支局員までも殺されてしまいます。しかし、手がかりを得てニューヨークに飛んだボーンは、CIA幹部であるボーゼンをまんまと出し抜いてブラックブライアーの極秘文書を入手します。文書をランディに託し、トレッド・ストーン計画が始まった(自分が洗脳された)建物に向かうボーン。全ての記憶を取り戻したボーンは、追撃を振り切り、屋上から川へ飛び込みます。

全ての記憶を取り戻したボーンが、自分に銃口を向ける暗殺者に言う台詞が印象的です。
ー 君はなぜ俺を殺す?自分を見ろ。人間と言えるのか?

『ボーン・アルティメイタム』のラスト。3部作のオープニング同様に、水中に漂うボーン。ニュースキャスターの声が響きます。「遺体は捜索3日目の今日も発見されていません。」カフェでそれを聞いていたボーンの仲間だったニッキーがニヤリとし、激しい音楽が流れ始め、ボーンは泳ぎ出します。









実に爽快なラストです。

出来過ぎ感はあるものの、ボーンの完璧な行動には、間違いなくひき込まれてしまいます。そして、何でも武器にしてしまう彼の戦闘力。彼にかかれば、ペンでも本でも武器にしてしまいます。記憶を失う前の彼に戻るのではなく、彼はマリーとの出会いを経て、新たな自分になります。最初に書いたとおり、ボーッとしながらスカッとしたい、そんな方にお薦めの作品です。

いやー、映画ってほんまええもんです!!


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2016年10月22日土曜日

沖仲仕の哲学の凄みを感じられる本(『エリック・ホッファー自伝』)

本日の一冊は、変わった経歴の持ち主の自伝です。

エリック・ホッファー自伝―構想された真実
エリック ホッファー
作品社
売り上げランキング: 26,926

本著の著者であるエリック・ホッファーは、独学の社会哲学者であり、「沖仲仕の哲学者」と呼ばれる方です。

7歳で母と死別し、同年突然視力を失い、以後15歳まで失明状態となります。そのため、正規の学校教育は一切受けていません。しかし、奇跡的に視力を回復した後、再び失明する恐怖から貪るように本を読みました。

18歳で父も亡くして天涯孤独となり、ロスに渡って、貧民窟に住んで様々な職を転々とします。28歳で自殺を図るものの未遂に終わり、それを機にロスを離れ、季節労働者として各地を渡り歩きます。一方で労働の合間に図書館に通い、大学レベルの科学、物理学、数学、地理学、植物学等をマスターします。

研究所等からの誘いも断って放浪生活を続け、39歳ではサンフランシスコに居を定めて港湾労働者(沖仲仕:はしけと船との間で、荷物のあげおろしをする人夫)として働き始めます。49歳で初めての著書を刊行し、その後も著書を刊行し続け、大学教授も勤めながら、65歳まで沖仲仕として働き続けました。80歳で死去する直前には、レーガン大統領から、自由勲章も送られています。

経歴だけでも凄いストーリーになってしまう方ですが、本著はこのホッファーの自伝となります。彼の人生を辿りながら、端々で彼のユニークな考えに触れることができます。


ー 人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけではなく、時として強者に勝利する。(中略)弱者に固有の自己嫌悪は、通常の生存競争よりもはるかに強いエネルギーを放出する。明らかに、弱者の中に生じる激しさは、彼らに、いわば特別の適応を見出させる。(中略)弱者が演じる特異な役割こそが、人類に独自性を与えているのだ。われわれは、人間の運命を形作るうえで弱者が支配的な役割を果たしているという事実を、自然的本能や生命に不可欠な衝動からの逸脱としてではなく、むしろ人間が自然から離れ、それを超えていく出発点、つまり退廃ではなく、創造の新秩序の発生として見なければならないのだ。

人生において、実際に常に弱者の側に身を置いていた人間故の、経験から生み出された思想です。恐らく、多くの場合において強者の立場にいる通常のインテリ層からは、生まれない思想ではないでしょうか。


ー どんな問題であれ、つねに答えを知っている人間がそばにいたら、自分自身で深く考えることをやめてしまうだろう。そうすれば、私はもはや本来の思索者ではない。不愉快な発見だった。

彼は貨物列車の屋根の上でこのことに気付き、深く思索するために、愛読していた本も風の中に放り投げてしまいます。


彼は、一時期働いた農場の主(大地主)からある時、「あんたのことを理解できない。将来のことを考えたことはないのかい?どうして知性あふれる人間が安心感なしで生きられるんだろう」と問われ、真面目に答えます。

ー 信じられないでしょうが、私の将来はあなたの将来より、ずっと安全です。あなたは農場が安全な生活を保障してくれると考えています。でも革命が起こったら、農場はなくなりますよ。一方、私は季節労働者ですから、何も心配することはありません。通貨と社会体制に何が起ころうが、種まきと取り入れは続くでしょうから、私は必要とされます。


そして彼は一貫して「今この瞬間」に価値を起き、学習を続けました。

ー 類似性は自然なものだが、相違は人為的なものだと私は考える。違いを作り出した人々の名をわれわれが知っていることもあるが、そうした人びとの大半は無名の誰も訪れない墓に眠っている。(中略)私が知る歴史家の中に、過去が現在を照らすというよりも、現在が過去を照らすのだという事実を受け入れる者はいない。大半の歴史家は、目の前で起きていることに興味を示さないのだ。

ー 有意義な人生とは学習する人生のことです。人間は、自分が誇りに思えるような技術の習得に身を捧げるべきです。技術療法の方が、宗教的な癒しや精神医学よりも大事だと思います。技術を習得すれば、たとえその技術が役に立たないものでも、誇りに思えるものです。(中略)私は、かつて成熟するとは、五歳の子どもの真剣な遊び心を取り戻すことだと言いました。


彼は、自らの内発的動機のみに従い、学習と技術の習得を続けます。そして社会の底辺に自ら身を置き、そこにいる人たちの情熱、さらにはその内に潜む不満を感じ続けました。そして、そうした人たちの持つ力を「人間の独自性」と捉え、そこから学んだ勇気を持つことの必要性について、世に訴えました。

徹底した学習と実際の経験に根付く思想の凄みについて触れることができる一冊です。

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2016年10月16日日曜日

平和を守るために真に必要なこととは?(『カエルの楽園』(ネタバレ))

本日の一冊は、色々と物議を醸す発言で有名な百田尚樹さんの著書。
ただ、日本の現状について深く考えさせられる一冊であることは確かでした。

カエルの楽園
カエルの楽園
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百田尚樹
新潮社
売り上げランキング: 259

ストーリーは、突然現れたダルマガエルたちに支配された祖国から逃れ、旅に出たアマガエルのソクラテスが、多くの苦難を経てツチガエルたちが平和に暮らす楽園ナパージュに辿り着くところから始まります。

「この国は何故こんなに平和なのか?」というソクラテスの疑問に対し、この国のツチガエルたちは口を揃えて答えます。この国の平和を守っているのは『三戒』の存在だと。『三戒』とは「カエルを信じろ」「カエルと争うな」「争うための力を持つな」。これがある限り、ナパージュが攻められることは絶対に無い、と。

一方で、この国は崖の上にあり、その下の沼地には凶暴なウシガエルたちがいます。そして、その沼のなかでは他のカエルが毎日食べられています。しかし、ナパージュのカエルは言います。
ー わしらには関係ないことだ。(中略)ナパージュのカエルは、他のカエルたちの騒動には関わらないのだ。

一方で、ナパージュのカエルは毎日「謝りソング」も歌っていますが、過去のどんな過ちについて謝っているのかすら誰も詳しくは知りません。ソクラテスは疑問を持ちます。
ー この国のカエルたちは三戒については詳しいのに、昔のことになると、知らないことばかりだね。

ナパージュ一の物知りとされており強大な権力を持つデイブレイクは、ナパージュの民は生来残虐で、ナパージュはひどい国だと言い張り、永久に謝罪をし続けることを国民に説きます。東の岩山に居座る巨大なワシであるスチームボートについても、いずれ追い出し、ナパージュは真の自由と独立、平和を手に入れる、と説きます。

しかし、ナパージュの嫌われ者であるハンドレッドは、ソクラテスに囁きます。
ー 仮にナパージュのカエルが本当にひどいことをしたとしよう。しかしたとえば、あんたのじいさんのじいさんのじいさんの、そのまたじいさんが一度だけ悪いことをしたのを、あんたは永久に謝り続けるのか?
そして、ナパージュが襲われないのは「三戒」のお蔭などではなく、スチームボートが守ってくれているからだと教えます。


そんなある日、ウシガエルが南の崖をよじ上り、ナパージュに侵入してきます。ナパージュは大騒ぎになり、7名の元老で構成される元老会議が開かれます。その場で、若い元老であるプロメテウスは説きます。
ー ウシガエルの国に三戒はありません。ウシガエルたちには、三戒を守る義務はないということです。
しかし、他の元老はあくまで自分たちが三戒を守っていさえすれば争いになることは絶対に無いとして、南の崖を防衛する手段をとることを一切拒否します。

さらに、ナパージュを守る代わりに、自分がウシガエルを追い払うときは一緒に戦うように、お互いに攻められたときは助け合うように、というスチームボートの提案をプロメテウスは他の元老に諮ります。
ー すべて自分たちだけが得をする約束事というのは、この世に存在しません。それはあまりにも都合のいい考え方ではないでしょうか。
しかし、この提案についても他の元老は拒否します。そして、ウシガエルを防ぐ具体的手段も講じることなく、ただウシガエルと誠心誠意話し合うことを求めます。やがて、スチームボートもナパージュを去ってしまいます。


ウシガエルたちは、どんどんナパージュの領地を侵食していきます。しかし、ナパージュのカエルたちはひたすら争いを避けることだけに汲々とし、ウシガエルを追い払った仲間のカエルも三戒違反として処刑してしまいます。そうしたなか、プロメテウスが三戒破棄を提案したことから、国民の議論が一気に高まります。

ある「語り屋」は言います。
ー ナパージュのカエルは戦ってはいけないんだ。徹底的に無抵抗を貫くべきなのだ。もしウシガエルがこの国を攻めてきたら、無条件で降伏すればいい。そしてそこから話し合えばいい。
ソクラテスは思います。無条件で降伏すれば、話し合う前に食べられるのでは?
ある「娘」は言います。
ー わたしたちの子どもが戦いの場に連れていかれるなんて、想像するだけでふるえてきます。
ハンドレットは言います。自分の娘がウシガエルの慰みものになるかもしれないという想像が欠如している。
エンエンと言う国を祖に持つピエールも言います。
ー 三戒を捨てるような愚をおかしてはなりません。
ハンドレットは言います。ナパージュには、エンエンに奪われた小さな池があるが、三戒がある限り取り返すことができない。やつらには三戒があるほうが都合がいいんだよ。
元老であるガルディアンは主張します。
ー 戦ってもいいのは、自分が殺されるかもしれない場合だけだ。南の草むらにウシガエルが入ったくらいで、戦いをすることは許されない。

そして始まった国民参加の採決の場において、年取ったカエルと比較的若いカエルの数の差により、三戒破棄の決議は否決されます。しかし、ウシガエルはどんどんナパージュの国土を侵食し、遂にはツチガエルを食べ始めます。それでも、元老たちは、ナパージュのオタマジャクシを守ったハンニバル兄弟に厳罰を与え、助けにきたスチームボートも追い払ってしまいます。そして、ナパージュの国は滅びます。


これがどこの国の話かは、すぐに分かると思います。「憲法9条」「米軍」「中国」「マスコミ」「韓国」、様々なものがこの寓話には登場します。この問題については、同じ日本人でも意見が大きく分かれます。しかし、日本人なら皆、平和を求めていることは確かです。憲法9条があるから平和が守られている。私もそう教えられてきましたが、果たして本当でしょうか?真に日本国が平和であるためには何が必要か、国民一人ひとりがより現実を直視したうえで、今一度考えてみる必要があります。

本作で、三戒を死守することだけに汲々とする元老たちに述べたプロメテウスの言葉が印象的でした。
ー たしかにナパージュでは三戒は他の何よりも優先される法です。しかし、それ以上に大切なものがあります。それはナパージュのカエルたちの命です。もし三戒がナパージュのカエルたちの命を危うくする時には、三戒を破るのもやむなしと思います。

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2016年10月8日土曜日

祖国=My Countryについて深く考えさせられる本(『ぼくらの祖国』)

本日は、知人の紹介で読んでみた一冊です。
内容を否定的に捉える方もいそうですが、私の心には深く響きました。

ぼくらの祖国 (扶桑社新書)
青山 繁晴
扶桑社
売り上げランキング: 4,019

著者は、現参議院議員の青山繁晴さん。歯に衣着せぬ物言いで有名な方です。

著者が本著で読者に求めていることはただ、「祖国とは何かについて考えて欲しい」ということです。日本では「祖国とは何か」について教えません。しかし、子どものときに「祖国とは何か」を教わるのが日本以外の全ての国では普通だ、と冒頭で述べられています。

著者も指摘しているとおり、日本で「祖国」が語られない理由は一般的に、「戦争に負けたから」だと考えられています。二千年を超える永い歴史を持つ日本は、たった一度だけ戦争に敗れ、占領されました。しかし、戦争に負けたことが祖国を喪う理由にはなりません。事実、世界中の主要な国は全て戦争に負けた歴史を持っていますが、国民に祖国を教えない国は日本以外にありません。勝った側の言う通りにせねばならない、という戦後以来続く思い込みをそろそろ捨てる必要がある、と著者は強く主張します。

ー 平和をたいせつにすることと、祖国を語らない、教えないことは、同じではない。平和を護るためにこそ、祖国をしっかり語ることが欠かせないのではないか。(中略)自分のことはたいせつにしないで、相手だけをたいせつにする。そんなことは、できるのか。
ー (祖国とは英語でMy Country。)世界のどこに、My Countryと言って右翼扱いされる国があるんだ。
ー 祖国という言葉は世界でもっとも普遍的な、ふつうに使う言葉であり、右翼用語扱いするのは敗戦後の日本社会だけだ。

祖国とは、政府のことではありません。我々日本人の母なる存在です。日本人誰もが共通して愛し続けるべき普遍のものです。そして祖国について考えるとは、祖先を敬い、子々孫々を想うことです。私欲のためならず、日本人のため、日本の社会のため、公のために生きることです。そのことを考えさせるための題材として、著者は4つの事実を挙げます。

まず、北朝鮮の拉致問題。ひとつの主権国家が、別の主権国家の国民を拉致して奪い去る。国際社会では、これは戦争です。しかし日本は、北朝鮮が勝手に取捨選択した数名の国民を連れ戻しただけで、残りの国民は見捨てました。自衛隊が国境を超えて取り戻しにくる心配は、北朝鮮にはありません。自衛隊は、海岸線に何万もの兵士が押し寄せるような古い戦争であり、かつ政府が「出動してよい」と決めない限り動けません。つまり現行の自衛隊は、これからの新しい戦争において、国民を護ることができません。今の形を変えない限り、国の子々孫々を護ることができません。

続いて、東日本大震災。GEの作った欠陥炉を米国に言われるままに購入した日本政府、津波対策の欠陥を露呈した東電、我が身可愛さに現場を見に行かなかった専門家、アリバイ作りのためにヘリで原発に少し立ち寄っただけで現場把握もせずに逃げるように立ち去った菅直人首相等々、私欲のために動いた人だらけです。しかし、そんななかでも南三陸町の防災庁舎で町民への避難を呼びかけ続け、波にさらわれた三浦さんと遠藤さんのことが述べられています。彼らが示した、ひとのため、みんなのため、公のために命を捧げる姿勢に、著者は日本人としての生き方を見ます。

そして、東京都小笠原村の硫黄島。映画でも有名になった太平洋戦争の激戦地です。ここでは、二万人の日本兵が亡くなりました。しかし現在、硫黄島に国民が立ち入ることはできません。そして、一万三千人の日本兵の遺骨が、いまも硫黄島に残ったままです。戦闘中、米兵は日本兵の亡骸のうえにコンクリートを直接流し込んで滑走路を造りました。そして信じられない事に、自衛隊はその滑走路を今もそのまま使い続けています。日本は戦後教育で、日本兵は悪者だったと教えてきました。しかし、硫黄島で亡くなった日本兵のほとんどは職業軍人ではなく、一般国民でした。彼らは、自分たちの玉砕は覚悟のうえで、一日戦いを引き延ばせば一日分、本土で女と子どもが生き延びられる。そこから祖国は甦る。そう信じて、私欲のためではなく、妻と子どものため、子々孫々のために、信じられないような暑さのなか、地下壕を素手で掘り続けました。彼らの魂に対し、我々日本国民は胸を張って、今の日本を「立派な祖国」として見せられるでしょうか?

『硫黄島からの手紙』より










最期は、資源の話です。日本はかつて、自前の資源を有しないがために戦争を始めました。そして多大な犠牲とともに敗れました。そんな日本人が、子々孫々のためになすべき最大の課題は、自前の資源の確保であるはずです。その意味で、いま最も有望な資源こそ、日本海に眠るメタン・ハイドレートであると著者は指摘します。しかし日本政府は、その可能性を意図的に無視しています。大手石油会社役員の発言がその理由を表しています。
ー 日本は戦争に負けたんだ。勝ったアメリカの言う通りに、資源は海外から買う。それで世界秩序も、われわれ日本の経済もうまく廻っている。日本海のメタン・ハイドレートは実用性が高いからこそ、それを覆す怖れがある。(中略)日本は資源のない国だと決まっているし、資源のない国でいなきゃいけない。
まさに、日本に根付く負け犬根性、そして何よりも私欲・既得権益にしがみつく病理の権化と言えます。

本著が「心に深く響いた」と冒頭に書きました。正直、東日本大震災と硫黄島の章では、涙を抑えられませんでした。著者は言います。

 命は自分のことだけ考えるのなら意味はない。子々孫々に受け継いでこそ命は輝く。

我々日本人は、祖先を敬い、子孫を想い、彼らに対する責任を果たすことを思い出すべきです。そして、母なる祖の国に対する想いを共有すべきです。本著は、必読の書だと思います。私たち一人ひとりが今一度、祖国について考えてみる必要性を痛感しました。

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2016年10月1日土曜日

武士道の虚飾を暴く浪人映画(『切腹』(ネタバレです))

本日も、映画でございます。
なんせ、実に素晴らしい作品に出会ってしまったもので。

あの頃映画 「切腹」 [DVD]
松竹 (2012-12-21)
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本作は、1962年の作品です。しかし、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した名作です。主演は名優 仲代達矢さん。この作品の撮影時はまだ20代。しかし、その演技には鬼気迫るものがあります。仲代達矢さんの演技だけでも必見の価値あり、です。

物語は、江戸幕府の泰平の世となった1630年。井伊家の江戸屋敷に、芸州福島家の元家臣津雲半四郎と名乗る浪人が訪れ、庭先での切腹を申し出るところから始まります。

これは、泰平の世となり、食い扶持を無くした浪人の間で当時横行していたたかりの手口でした。切腹志願の覚悟が認められて仕官が適った例を聞き、多くの浪人が諸藩の江戸屋敷に押し掛け、結果、対応に窮した諸藩が金銭を与えて追い返していたためです。

井伊家家老である斎藤勘解由は、津雲半四郎を諌める意味で、少し前にも同じような申し出をしてきた千々岩求女(もとめ)という若い浪人がいたことを彼に話します。同じ福島家の元家臣であるものの、求女とは面識が無いと語り、勘解由の話に聞き入る半四郎。勘解由が語る話は以下のようなものでした。

庭先で、半四郎と全く同じ申し出をする求女。浪人のたかりを苦々しく思っていた井伊家では、仕官が適いそうなそぶりを見せて希望を抱かせた後に切腹を強要する、という陰湿な仕打ちをします。慌てる求女。井伊家は、一両日の猶予を欲しいとの求女の懇願も拒否し、さらに真剣ではなく、求女が腰にさげていた竹光での切腹を強要します。「武士の面目」の名のもとに。最期の瞬間も、切れない竹光を無理矢理腹に突き立てたまま悶え苦しみ、早く首を落としてくれることを懇願する求女に対し、「竹光で十字に腹を切れ」という辱めを強要します。それはまさに、強者(徳川家の有力家臣である井伊家)が弱者(藩を取り潰された福島家の浪人)を徹底的にいたぶる図でした。

勘解由の話を涼しい顔で聞き流す半四郎。そして「拙者は千々岩とか申す者とは違う。ものの見事に腹かっ捌いてお目にかける」と語り、庭先に用意された切腹の場に臨みます。しかしそこで、半四郎は一つの要求を勘解由に突きつけます。介錯人として、井伊家のある剣客を指名したのです。しかし、井伊家の遣いがその者を呼びに行ったものの、大病を患って出仕が適わぬとの返答。それを聞いた半四郎は、次々に別の2名の者を指名します。しかし奇怪なことに、その2名も大病を患っていました。そして、その者たちを遣いが呼びに行っていた間、半四郎は身の上話を勘解由たちにし始めます。
ー 千々岩求女、いささか拙者の存じよりの者であってな。
彼の話は以下のようなものでした。

求女は、切腹した半四郎の親友の息子でした。半四郎は、親友から求女のことを託されていたのです。一方で、半四郎には美しい娘美保がいました。半四郎は美保を求女の元に嫁がせ、二人の間には赤ん坊も産まれました。しかし、貧しさで美保は病いを患い、赤ん坊までが高熱を出します。武士の魂である刀まで売るほど困窮していた求女は万策尽き、妻と子どものために井伊家の前に立ったのでした。そして求女の死を追うように、美保も赤ん坊も病死します。

半四郎は勘解由に問います。「求女の行動は武士として言語道断だったが、求女に対する井伊家の仕打ちはひど過ぎたのでは?一両日だけ待ってくれとの求女の懇願に、その理由を聞くだけの思いやりを持つものが、何故一人もいなかったのか?」と。そして半四郎は「武士といえども一人の人間に過ぎない。妻子のために一両日待って欲しいとは、よくぞ血迷った」と求女を称賛します。そして半四郎は言います。
ー 所詮、武士の面目などと申すものは単にそのうわべを飾るだけのもの。

しかし、依然として情けの欠片も見せず、「武士の面目」について大上段に語る勘解由に対し、半四郎は「井伊家からの預かり物」として3つの物を投げて寄こします。それは、「武士の面目」を振りかざして求女に辱めを与えた主犯3名であり、かつ大病を患って出仕が適わぬと言ってきた3名の髷(まげ)でした。半四郎は言います。
ー 武士たるものが髷を切り落とされるは、首を打ち落とされたも同じ。不始末。不面目。(中略)にもかかわらず、病気と称し出仕を休み、ひたすら髷が伸びるのを待っている始末。赤備えの武勇などと言いながら、井伊家の家風も所詮、武士の面目のうわべだけを飾るもの。

半四郎、最後の大立ち回り











新渡戸稲造が著した「武士道」は、忠義や謙譲を信条として、世界でも広まりました。しかし、本作で描かれる「武士道」とは、強者が弱者をいたぶるための口実に過ぎず、藩存続のための建前であり体裁に過ぎません。本作では、武家社会の虚飾、人の醜さを徹底して描きます。しかし、当時の武家の世の実態とは、後者であった気がします。

半四郎の壮絶な最期を井伊家は「切腹」としてもみ潰します。大病を偽った3名も切腹と相成り、これらも「病死」として処理します。全ては、うわべを飾るだけの武士の面目のために。

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